早苗とひとしきり話をしたあと優子の「場所を変えない?」の問いに「OK」と早苗は、にこやかに応え、
すぐに支度にとりかかる。
じっと店の片隅でそれとなく様子を見つめていた杉浦はその様子に動転したが、とにかくレジに急いだ。
そして請求書を差し出した優子に「もう、お帰りですか?」と声をかけた。
「えぇ、、」との優子の片言の返事に「あっ、はあ、、、」と答えにならない返事をした杉浦だったが、
「ちょっと待ってください」と懐をまさぐるようにして名刺を取り出し、急いでその裏に携帯番号を殴り書きしたあと、
「どうぞ、、、」と言いながら、優子の目の前に突き出した。杉浦は真っ赤になっている。
そばの早苗は「いただいたら、、、、」との声に優子は素直に従った。
「本当にまたいらっしゃいますか」との杉浦の問いに「えぇ近々、用事がありますので、
また伺うと思います」と優子が言ってくれたのである。
杉浦は単純に高揚してしまった。その言葉に、一瞬の幸せをかみしめたのだった。
そして「本当ですか?」とさらにもう一度、杉浦の聞いに、早苗はそばで笑った。
「えぇ、、それでは、さようなら」
蒸し暑いその日は、店の扉を開けるとムッとする熱気が襲ってきた。
杉浦もあとを追うように外に出る。
優子と早苗は「また来ますね」と言って振り返りながら手を振った。
その言葉に感動し、杉浦は二人の帰って行く
後ろ姿をいつまでも見つめていた。{もしかしたら時が味方し、天に通じたのかもしれない}杉浦は思った。
{ 久我さん、、、}と何度も呟きながら、、、
消え入りそうな 張り裂けそうな想いのたけ
過ぎ去った日々が とてつもなく 長かった
心の奥に灯していた あなたをいつまでも探した
あの輝きを見つけたとき 僕は生きる意味を感じた
胸がつんときて うれしさと哀しさが舞いあがる
いてくれるだけでいい ただそばにいてほしい
すさんでいた僕の心 願い続ければ叶うことを知った
輝きは私のもとへ いつかは帰ってくる
色とりどりの夏の日 もう行かないでおくれ
もう離れないでおくれ もう行かないで
あぁ、もうそばから決して離れないで
杉浦は二人のすぐそばまできた。
「あの、、、たしか久我さんでしたよね」と絞り出すような声をだした。が、声が細い。
「あら、なんで私の名を」と優子はキョトンとして杉浦の顔をまじまじと見上げたのだった。
その愛らしい眼差しに「いえあの、、、あの、、、」と答えにならない返事をし「いえ、以前、学生でいらしたころ、久我さんたちがいらっしゃっていたときのことを思い出したので、声をかけてみようと思ったのです。あのころ、ちょくちょくご利用いただいてましたから、、懐かしくなってしまって」
「まあ、、、ありがとうございます。そうですよね。 もうあれから、ずいぶんになりますものね。その節はいろいろとお世話になりました」と優子は軽く、お辞儀をした。向かいに座っている早苗も軽く頭を下げ杉浦を見つめている。
杉浦は優子のそのなつかしい声を聞いて本当にめまいをしそうになった。優子の向かいに座っている早苗のことは目に入らない。そんな様子に早苗がクスクスと笑い出し、「そういえば、あのころ、背の高い感じのいい人だなと思っていたんですよ」と早苗は優子と顔を見合わせながら言った。
「あのころはあまり、お話する機会がなかったですね。こちらのほうには、よくいらっしゃるのですか?」と思い切って聞いてみたのである。
「そうですね。あれからあまり機会がなかったのですけれど、今日はこちらのほうに用事がありまして、それにここが懐かしくなって、、」
「ありがとうございます。またこちらにいらっしゃるご予定はあるのですか?」ともう切り出してしまったのである。
「えぇ、そうですね。また近々、予定がありますので、伺うと思います」
「本当ですか?」大きな声を出し、まるで子供のような杉浦の返答だった。あまりの単刀直入さについ優子も微笑みながら答えた。「ここはいつも感じのいいお店ですよね」その返事にどう応えていいかわからず杉浦は照れに照れてその場を去ってしまった。
それは、、時だった。
このなんの変哲もないと思えるもの。その時というものが、日々を癒してくれていたのである。
あれから、10年が過ぎ去っていた。杉浦はウファの店長になっている。
そして先日の夏のあの日。突然、その機会は現れた。
喫茶店ウファに優子と早苗が突然、入店してきたのである。
杉浦は目が眩んだ。別人だと思った。現実と過去が交錯しクラクラとした。立ち尽くす心に湧き出す新たな炎が心臓を熱くしては突き動かしす。あまりの驚きに惑い、夢のように感じられた。10年前の月日の幻が現実となり目の前に繰り広がれている。心臓を突き刺すような痛みを覚え、杉浦は思わず胸を押さえた。胸を抑えながら{落ち着け、落ち着くんだ }と戒めようとしたものの、脂汗がじわりじわりと噴出してきてかき乱されている。
ウェイトレスから「店長、店長!」と何度か声をかけられなければ、いつまでもじっとたたずんでいたに違いない。
たしかに覚えのある女性二人は窓辺側に座って談笑している。一人は優子。そしてもう一人は名を忘れてしまったが顔は覚えている。
杉浦は我に返ると{ もう二度とはないかもしれない}という不安が急に襲ってきた。
意を決し、二人のほうへと近づいて行った。
{ 好き }という言葉。
いつも心の中で唱え、迷いの中にいた杉浦。
しかしその躊躇がいつしか機会をなくしていた、、、そのことにある日、気づいた。
いつしか優子たちは姿を現さなくなっていたのである。うっかりしていた。
優子たちが大学の卒業時期だったことにまったく気づいていなかったのである。
いつまでも在学しているという錯覚。その思い込みに自分を責めたてた。
大学の事務所に尋ねてみて「個人情報ですから」という一言で一蹴されたのはあたりまえのことだった。
その後の杉浦は身のおきどころがなく、店に勤務しても遠くを見つめるもののよにして、優子たちがウファに
訪れるのを待ち続けていたのだった。ほかにいくつか方法はあったのだろうが、この店で待ち続ければ、
優子や優子と一緒に訪れていた人たちの誰かが訪れてくれるものだろうと思った。
しかし現実はそれほど甘くはない。待ち続けているうちに自分自身の馬鹿さかげんに気づくことになる。
しかし杉浦にしてみれば、ほかに方法を思い浮かばず、ひたすら待ち続けていたのである。
いつか来てくれる。優子の友達でもいい。あの仲間の人たちの一人でも来てくれさえすればと。
その想い、毎日の切ない焦燥感がうねりをあげて身を焦がしていく。
誰かが入店するとすぐに顔を向いてしまい、つい出入り口が気になってしまう。夜になるとその哀しさは
より増し布団の中で泣いた。
だが、その苦しみを癒してくれたものがあった、、、。
そのおよそ2ヶ月前、、、。
喫茶店「ウファ」は池袋駅から少し離れたところにある。
店内のところどころに花の植木鉢をあしらえたこぎれいな女性向きの喫茶店だった。
優子が泉女子大学に通っていた頃、ときにこの喫茶店ウファを利用していた。
そのころ、この店でアルバイトをしていた杉浦はいつしか優子に片思いをした。
店に集う数人の学生たちの中でも優子は、杉浦にとって、ひときわ目立つ存在で、優子を中心にして
数人の女子学生たちの放つ生き生きとした明るさは、かけがえのない輝きのようだった。
そばを通るだけで美しい花の香りがするように感じていた。杉浦は可憐な笑顔と張りのある優子の声を
思い出すと夜、なかなか寝つけず、想えば想うほど心が高ぶる。だがその気持ちを彼女に伝えられない自分を
情けないと思っていた。しかし店に訪れる優子を目にすると自分の気持ちを見透かされまいとそらぞらしく
なってしまう。なにかしら怖さを感じて、熱い気持ちとは裏腹にまじめなウェイターの態度になるのが、
恋焦がれる人に対してのせめてもの表現方法だった。それに談笑している仲間から優子が一人きりになることは
稀だったことで{優子に告白するチャンスがなかなかつかめない}という言い訳をこしらえて
自分の勇気のなさを慰める。この店に訪れる美しい優子を見ては心が騒ぎだし、店を出る頃には
切ない気持ちになってしまう杉浦だった。